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ドクター岡田の健康談話室第3回  第31回日本レーザー医学界

31回日本レーザー医学会関西地方会が土佐の高知で開催される

 

2018年7月21日(土)、土佐の高知での学会であり、朝早くから出かけたのである。

この日も快晴であり、とにかく暑くてたまらないくらいである。大阪の伊丹空港からの出発であったが、朝早くから乗客は集まっていた。DHCのプロペラ機であり、満席であった。

約45分のフライトではあったが、四国山脈の広さを存分に味わったのである。午前8時20分の定刻に高知竜馬空港に着いたのである。そこから会場の「高知市文化プラザかるぽーと」までバスにて移動し、ようやく会長にお目にかっかったのである。学会場には、朝早くからの出勤であるため、前日から2泊をするものもいたのである。

学会のプログラムを見ると、表紙には山内一豊の騎馬像と高知城が合成写真で入っており、これには誰しもが頷いたものと思われるのである。

<図1:山内一豊の騎馬像>

高知県と言えば、まず坂本竜馬が浮かび上がるのであるが、この表紙のごとく山内一豊を取る人もあるのである。そこでまず、山内一豊氏について,書いてみたいと思う。

戦国時代から江戸前期にかけての武将であり、大名である。土佐藩初代藩主であり、家紋は、三つ柏紋である。父は、山内盛豊、母は、法秀泥、であり、6人の兄弟があった。正室は見性院であり、与弥という長女がいたのである。

豊臣秀吉、徳川家康らに仕えて、関ヶ原の戦いの小山定評において徳川方に従った功績により、土佐国9万8千石が与えられ、その後高直しによって、20万2600石に加増されたのである。

さて、ときは1577年播磨国有年(兵庫県赤穂市内)を中心に2000石を領した。その後も秀吉の中国地方経路にも加わり、播磨の三木城をめぐる戦いや因幡の鳥取城包囲や高松城水攻めなどの多くのものに参戦しているのである。

天性9年(1581年)の馬揃えの歳には、妻が蓄えていた黄金で白馬を買って夫に武士の面目を施させたという美談があるのである。

<図2:高知城>

<図3:山内一豊の妻>

この話は後世に受け継がれているのである。

豊臣秀吉の死後慶長5年(1600)には、五大老の徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加したのである。その後石田三成らが挙兵すると、一豊は下野国小山における軍議で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供すると発言してその歓心を買って東軍に力を注いだのである。このように高知平野内の大高坂山に統治の中心とする高知城を築城して、城下町の整備を行ったのである。

領民に対して,食中毒をきずかって鰹を刺身で食べるのではなく、その表面のみを炙って食することを始めたのである。これが今でいう、「鰹の叩き」というものである。このように高知城には、あまり知られていないような歴史的な話が沢山あるのである。